2015年3月13日金曜日

月報巻頭言 3,4月号

「十字架の苦難の恵み」
イザヤ書533節~5
3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。5彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

このイザヤ書の御ことばは、四旬節、イースターになるといつも思い出します。また、必ず読まれるイザヤ書の御ことばです。
この御ことばは、「主の僕の苦難」といわれています。以前、2月からお配りしている説教と、聖書講和紹介の中で取り上げた箇所です。
この箇所について、神学校でも教鞭を執られた名尾耕作先生は「この文章は完了形(過去)で書かれていますが、これはヘブル語の文法では預言的完了形といわれ、将来確実に起きることを預言するときに使われます。」と仰っています。
まさに、この事がらは、イエス様の十字架の苦難によって到来し成就しました。
私たちはこの出来事を覚える時、特に3節の事がらについて覚えていきたいのです。
イエス様が十字架に架かられたのは、単純に預言を成就するためではないということです。イエス様が十字架に架かられたのは、私たちの病、私たちの負い難い痛み、苦しみ、嘆き、悲しみを負ってくださり、私たち一人ひとりと連帯してくださっているということです。
もちろん、私たちの罪の贖いということが大前提にありますが、私たちは弱められている時、神様を疑ってしまいます。神様を信じる力を失いかけてしまいます。時には、失うこともあるでしょう。
しかしながら、そのような私たちの不信仰を神様は知ってくださっていますし、それが何故私たちの心の内に起こるかご存知です。それが私たちの弱くされた魂、そしてその痛みの結果であるということを。
だからこそ、イエス様は、その人間の魂の痛みを共に負ってくださったのです。担い難い十字架を、その身に負って、自らが傷つくことによって、十字架が私たちにとって関係のないものではなく、神様もまたあなたの痛みを負ってくださっているという福音を伝えてくださっているのです。
四旬節、イースターの出来事を通して、そのような神様の愛の出来事の中に生かされていることを思い起こして過ごしてくださればと思います。神様は、あなたの痛みをご存知です。

だから、恐れることはありません。十字架の弱さの中に輝く神の栄光が約束されています。この福音により頼んで、そして、十字架のしるしを旗印に希望を持って信仰の歩み、宣教の御業を進めてまいりましょう。